boussole 2
気まぐれと言うには、その男は無関心すぎた。
王位争いによって家族を喪った彼にとって、世の中の全て、自分が生きる事すら無意味に思えて仕
方なかった。たった一人、この混乱の中で生き延びて何になるのだろうと、ずっと考えてそれまで
を生きていた。
彷徨う幽鬼のように、虚ろに日々を過ごしていた。
けれど家族がいなくなっても、住む家には相変わらず自分一人だけがいた。
あちこちに家族がいた名残はあるのに、誰の気配も感じられない寂しい空間。
とうとう男は家族との思い出が詰まった家にいる事が堪えられなくなり、そのまま家を出た。
目的地があるわけもなく、ふらふらと足を進めた先にあったのは人里から少し離れた森。
何も考えずその中に足を踏み入れて、街同様やはり生きる気配が希薄な雰囲気にますます何もかも
がどうでも良くなった時、目の前に地面に倒れている少女を映した。目を見開く。
死んだ妹が還ってきたと思った。
髪は驚くほど短かったが、背丈の程はほぼ同じ。この時代のためかひどく痩せていたが、そんな事
は気にならなかった。
慌てて駆け寄り、横たわる体を抱き起こす。
ぐったりとした顔色はやはり悪い。
抱き上げられた事が分かったのか、少女は瞼をぴくりと動かした。まだ生きている事に安堵しなが
ら、大丈夫かと言おうとした所でその言葉は呑み込まれる。
なぜなら、少女は男が口を開く前にひどく鬱陶しげに「なに、」と呟いたのだから。
呆気に取られ思わず押し黙ると、それを嘲笑うように少女は皮肉げに笑った。売ったって、たかが
知れてる。その言葉からすると、どうやら自分は人身売買の類に思われたらしい。
そこで男は思った。こんな可愛くない反応をするのが妹であってたまるものかと。
それは男の認識が変わった瞬間だった。少女の声を聞くまでは確かに不安定だった瞳が今やしっか
りとした光を宿し、輝いている。たとえその目が据わり、何かを決意したものであったとしても、
確かに男はその瞬間息を吹き返したのだ。
亡霊を追い求めるそれではなく、今目の前にある現実を受け入れるそれへと。
目を完全に開けきるだけの力がもう無いのか、半分だけ開いていた少女の目にその変化が映ったの
かは定かではない。
けれど男はしっかりと少女を捉え、認識した。
男は妹ではなく、見知らぬ少女を助けようと決めた。そうすると狼狽えるしかなかった数分前が嘘
のように自分が今何をするべきか冷静な判断力が戻ってくる。
急がなければこの少女の命は危ない。
男がそう思った時だった。
「・・・・・・やっと、終われるんだから。邪魔、しないで」
弱々しいくせに何故かはっきりと耳に届いた言葉に、男は眉を寄せるよりも早く巫山戯るなと言い
たくなった。相変わらず半分開いた目で人を馬鹿にしたように少女は男を見ている。いや、それを
向けているのは男にではないのかもしれない。どちらかと言えば自分を嘲るように、そうして何も
かもを諦めているかのように、少女はうっすら笑ってみせた。
ふつふつと怒りが湧き上がる。
終われる、だと?
ふざけるな。
全てを投げ遣りに、どうせ死ぬのだからとこちらを見ようともしない少女に腹が立った。
「終わらせない」
終わらせてやるものか。
怒りすぎて平坦になった声に興味を引かれたのか、あるいは言葉の内容に訝しんだのか。
少女は完全に目を開いてこちらを見た。その目はありありと不審が浮かんでいる。
あぁ、やはりこれは妹などではない。こんな生意気な目をして、一人にしろ放っておけと主張する
なんて妹であるはずがない。
普通なら落胆するはずが、その事実は男の心境をやけにすっきりとさせた。
つかえていたものが取れたように、すんなりと心に落ちる。
男はにやりと笑った。
ここで出会わなければおそらくこんな風に思う事も、生きようとする気力も甦る事は無かっただろ
う。ただ家族がいないという絶望に支配され、そう遠くない頃に死んでいたに違いない。
それを引き留めたのはこの少女だ。少女にそんな意図がなかったにしろ、実情がそうであるのだか
ら原因はこの少女だ。
ただその視線と諦めだけで自分をこの世に留めたのだから、それに付き合うのは当然だ。
終わらせてなど、やるものか。
男はひょいと少女を抱え上げ、歩き出した。
それからが、全ての始まり。
「なにボーッとしてやがる」
「初めて会った時の事、思い出してた」
言って、中断させていたお茶を再開する。
ぬるくなったそれを飲み干して、一息ついた。
あのままなし崩し的に兄弟のような親子のような関係になってからいくつもの年月が過ぎた。
今や幼児体型だった体は女性らしくなり、体が縮む前と同じ年頃になった。
少女は、男・・・嚥 孤瞬をちらりと見遣り、目を細める。よくもまぁ、飽きもせず見ず知らずの他
人をここまで育て上げたものだ。そのおかげでこうしていられるのだが、あの混沌とした時代であ
ったのに厄介事を増やすなんて、と当時はひどく呆れたものだった。
以来、自分が何者かも聞かず(まぁ、幼児にそんな事を聞く人なんてそうそういないだろうけど)
至って普通に、というには扶養者の義務だとか拾われた者としての最低限の敬語だとかは皆無だっ
た日々を過ごすうちに、こんな日常が固定化されてしまったわけだけれども。
「あの時はどこに攫われるのかと思ったけどね」
「逃げなかったのはテメェだろ」
「んな体力無かったっつーの!」
攫うように拾われた頃から変わらない遣り取りに、彼らを昔から知る人は微笑ましいものを見るよ
うに穏やかな目で見守る。
女人が立ち入る事を禁じられているこの王宮内で、しかも男ばかりの軍の中において少女の姿があ
る事はもはや恒例となっていた。
訓練をしたり見張りに立ったり警護をしたりと、文官に比べて比較的外にいる事が多い武官の中で
少女の事を知る者は意外と少ない。
それは孤瞬が人のいない頃をちゃんと狙ってそうさせているからなのだが、かの少女がそれを知る
事は無い。ただ不用心だなとか王様がいる所なのに大丈夫なのかとかそれでいいのか軍人が、とい
う事しか思っていないのはこの場にいる誰もが何となく分かっている。分かっていて誰も言わない
のは、野暮な事だと誰もが知っているからに他ならないが、多分にただ単に面白いから、という理
由も含まれている。
「おら、休憩が終わったんならこの書簡も片付けとけ」
「ちょっとは自分の仕事は自分で片付けなさいよね! ていうか私、差し入れに来ただけなのに何
で筆を持たされてあんたの仕事手伝わされてんの!?」
「いいから手ェ動かせ」
これはこれで二人の関係は悪くないのだから面白い。
口にも態度にも出さないが少女を心配し大切に思っている孤瞬と、素直にそれを受け取らない養い
子。不器用な者同士が不器用ながらもお互いを想っているのだから、これほど見ていて微笑ましい
ものはなかった。
少女は文句を言いながらも積まれた書簡の量を見るや黙って筆を取っているし、男はそんな少女を
己で隠すような位置にいる。付かず離れず、何かあったらすぐに駆けつけられるようにしているの
だから、口元が緩むのも女人がいる事に口を噤むのも自然の道理である。
特に孤瞬が家族を亡くしてからの頃を知っている者達にとっては良かったと思えた。一人傷ついた
まま心に血を流し、手当の手を受け取ろうとも休もうともせずがむしゃらに何かに抗っていた時、
出会ったのがこの少女だ。
今となっては二人が二人でなければ違和感を感じてしまう程に、この二人は一緒にいた。依存する
訳でも束縛する訳でもなく、帰る場所はそこだと言うように。
「あんた溜め込む前にとっとと片付けなさいよね!」
「気が向いたらな」
「仕事しろ!」
貴陽に、幾度目かの春が訪れていた。
(07/06/24)
* 嚥 孤瞬…えん こしゅん と読みます