boussole 1


「・・・・・・若返りすぎにも程があるでしょう・・・」 低くなった視点。目の前に広げた記憶よりも小さい手。そして自分の現状。 それら全てに対して、深い溜息と共に呟いたその声を、爽やかな風が攫っていった。 大学生活を始めて二年余り。 空き講の時間にやる事もなく、適当に時間を潰そうと考えていた矢先の事だった。 目的を定めたわけでもなく、ただ足を動かしていると、突如として足が全く動かなくなった。 驚きに声を上げる間もなく重力のままに崩れ落ちそうになる。反射的に強く目を瞑った。 おそらくは、この後に来るであろう痛みを見通して。 もちろん唐突な眩暈に襲われる覚えなどなく、一瞬だけ思考は何事かと考えるが、すぐに切り替え て衝撃に備える。 しかし予想していたコンクリートの硬さは両手に伝わる事はなく、同様に膝にも痛みは一向にやっ て来なかった。 「・・・・・・?」 訝しんで恐る恐る目を開けると、飛び込んできたのは舗装された道ではなく柔らかい土の上で、そ こが地面であると知れる。 けれど、あまりにも予想を上回る展開に脳内の機能が全て停止した。何が起こっているのだろう。 それは正しく行き着く疑念の先であった。けれど、それに答える声はどこにもない。 呆然と顔を上げる。すると目に飛び込んできたのは枯れかけた木の群れだった。それがいくつも連 なって不気味な空間を作り出している。 明らかに異常だった。 普通ならば緑の葉をつけ、生き生きとしているはずの森は、今はその面影すら見つける事ができな い。強いて言えば、死んでいる。それに尽きた。見慣れている深緑はなりを潜め、ここが森である と言う事すら憚られる光景に絶句する。 「・・・・・・なに・・・・・・?」 何が、どうなってるの。 未だに回らない頭は現状を処理するのに精一杯で、答えを導くには至らない。 ぽつりと零れた音でさえ、あっという間に周囲の静けさに溶ける。 呆気に取られたまま森の奥に視線を向けていたが、土が剥き出しになった地面に座り込んでいる事 に気付いて立ち上がった。 そうして、再び違和感を覚える。 初めは周りの木が高いのかと思ったが、違う。 傍目にもやせて枯れかけている木だ、アマゾン未開の地ではあるまいし、周囲に立派過ぎるほど立 派な木はどこにも生えていない。 ならば、この違和感は何だ。 気付きたくないのか、それとも認めたくないのか、確かめればいいものを体はそれを実行しようと はしない。 代わりにどくりどくりと心臓が大きく鼓動して冷や汗が出てきた。嫌な予感にごくりと喉が鳴る。 そうして、まるで恐ろしいものを確かめるようにゆっくりと目が動いた。 真っ直ぐに前へ固定されていたそれが伏されて視線が下を向く。 「――――っ!!!」 ややあって、予感は現実のものとなった。 視界が、低い。 そろりと頬に手をやると、今朝の自分よりも明らかに弾力がいい肌が指を押し返す。 数秒後、男前に「何だこれは」と空気を切り裂くような大絶叫が枯れた森に木霊した。 果たして、見事に幼児体型へと逆行した己に覚えたのは怒りでもなく、焦りでもなく、それらを通 り越した溜息だった。 周りに誰もいないこの状況で、一人憤っても虚しいだけだと賢明にも悟った結果、一人ふつふつと やり切れない思いに唸る。 「なんっで、こんな、事に・・・・・・!」 ずるずる。 もはや旅行鞄並に大きくなってしまったバッグをひきずり、これまたビッグサイズになってしまっ た靴をカポカポと鳴らしてひたすらに森を進む。 下に履いていた服は鞄の中だ。体が小さくなったせいで上着がワンピースサイズになり、そのまま だと汚してしまうため、仕方がないので脱いだ。 しかし、こうして幼児になると幼児の苦労がよく分かる。大人の足ならばそんなに深くはないであ ろうこの森も、樹海のように感じてしまう。出口はまだか、と形相が険しくなるが、幼い顔立ちに はそれは余りにも似合わない。 「・・・・・・、」 半ばヤケクソ気味に進んでいた足がぴたりと止まった。 両の目があるものを捉え、視線が一点に集中する。 そこにあったのは、死体だった。 人間の、からからに干涸らびた、死体、だった。 みるみるうちに目は見開かれ、瞳孔が萎む。 ならばこの匂いは、 「・・・・・・ぁ、・・・・・・」 足が一歩後ろへと下がる。自分が立てた音なのに、ガサリという音にびくりと肩を震わせた。 記憶する限りでは始めて見る人間のそれに、驚きより何より恐怖が先走って一歩も動けない。 落ちくぼんだ目は昏く、まるで闇を凝縮したような様相で、半開きの口が今にも動き出しそうで恐 ろしい。人間とはここまで小さくなれるものなのかと恐怖に縛られながらもどこか冷静な部分がそ んな事を囁く。よく見ると、それが餓死者であると知れた。痩せこけているのに腹だけは膨れてい て、他は血を抜き取ったように細い。 風に乗った枯葉が死体の目の部分を一瞬だけ覆い隠し、やがて離れた時、無いはずの目が自分を捉 えたような気がして、一気に走った。 ひたすらに、逃げた。 息が上がって筋肉が限界を訴えても、それでも走り続けた。頭の中はもう真っ白だ。 なんだアレは、何だあれは、なんだ、あれは!!! 走り続けて、石に躓いて地面に倒れる。四つんばいになって荒い息に喘ぎながら、わけが分からな くて涙がこぼれた。 息苦しさと相まって、胸の内はぐるぐると不快な淀みでいっぱいになる。 気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。 「ひっ・・・・ぐ、はぁっ、はっ・・・・・・、ゲホッ、ゲホ・・・ッ、っは、は・・・・・・っ」 夢なら冷めて欲しいと切実に願った。こんなのは悪夢以外の何でもない。最高にタチの悪い夢だ。 悪趣味すぎて、いっそ笑えるほどの。 「なん、なの・・・・・っ」 ぐ、と拳を握り締める。ガリ、と土を引っ掻いた爪は黒い。涙でぼやける視界には相変わらず土と 枯れた木が広がっていた。もう何も見たくない。閉じた瞼に闇が降り、それが先程の光景を思い出 させて慌てて目を開けた。意識を逸らす事さえ、今の自分には出来ない。 ますます溢れた涙に、それを拭う事すら出来ないまま、ただただ涙を流し続けた。 ふと自嘲の笑みが漏れる。 それで何が変わる。何が終わるのか。 逃げたってここから真に逃れる事だって出来ないくせに。 現に全力で走って逃げて、それで何かが変わったと問われれば、答えはノーだ。変わらない。何ひ とつ、変わらないまま。 「・・・・・はは・・・・・・っ、」 わなないていた唇から、乾いた声がか細く零れる。 堰を切ったように、それはくつくつと後から後から溢れた。虚しい笑いが口の中で木霊する。 この飽食の国で餓死者? こんな山の中で? 日本にだって飢えている人はいる。だからってあんな 山の中で一人野晒しになるか? 有り得ない。有り得ないだろう? どう考えても。 だって。 こんな事、有り得てはいけないのだから。 ぎちり、と奥歯が鳴る。涙はいつの間にか止まっていた。 右手は土を、左手は鞄を掴んだまま、荒れていた吐息さえ今は不思議に静まり返る。 これは夢か。そんな事はもうどうでもよかった。 私自身が、今までに感じた事、それが全てだ。 第一、夢は匂いを感じられないものである。あれほどはっきりと匂いを感じ取れたのに、それが気 のせいであるはずがない。 全て、現実なのだ。まぎれもなく。 雨など降ってはいないのに、一滴の雫が土の上に落ちて消えた。 そうして結局は、ここが自分のいた場所とはかけ離れた所であると知る事となった。 どこか人が集まっている場所に行けば状況把握くらいは出来るだろうと思い、実際に足を向けてみ ると、予想に反して近付けば近付くほど人々の様子や雰囲気は悪くなっていく一方だったのは予想 外だった。混乱していると、やけにギラギラと光る目を持った大人に見詰められたので、すぐさま 走ってその場から逃げ出した。直感が関わるなと告げていた。 案の定、背中には人身売買を匂わせる台詞がぶつけられた。それ以来一度も人と関わる事をしなか った。 人里には近付かない方がいいと判断した私は、一人で生き抜くしかなかった。 仕方がない、頼れる人なんていなかったのだ。 こういう時は人間の適応能力の素晴らしさを痛感する。自分で自分を守るしかないという切迫した 状況も後押ししての事だろうが、それなりに生きる事はできた。 けれど幼い体が限界を迎えるのも遅くなかった。 やせ細り、ぼろぼろになった私は、多分見れたものじゃなくて。 ず、と引きずっていた足が木の葉で滑り、みっともなく転倒する。 地面に倒れ込んだ私が思い出したのは、最初にここで見た人の事だった。最初に遭遇した死体であ る。(人に会いたくないと思い、思い浮かんだのが死体などと、なんと皮肉な事か) あの人と同じように自分も死ぬのか。 考えると笑えてきた。 あの時恐怖で逃げ出した自分が、まさに同じ道を辿りつつあるのだ。なんて皮肉だろう。なんとい う滑稽さだろう! もう動く事さえ出来ないと思っていたのに、唇は嘲笑するように吊り上がった。呆気ない最後だ。 足掻き続けた結果がこれ。ようやく終わるのか。何も分からないまま。 ・・・・・・死ぬのか。 閉じた視界が闇に染まり、意識もそれを追おうとしていた時、ふいに体が誰かによって抱き上げら れた。けれど瞼をこじ開ける事さえ億劫になっていた私は、ひどく鬱陶しげに目を開き、眉間に皺 を刻んだまま開けきらない目で「なに、」と呟いた。まるで喧嘩を売る不良のように。 ・・・・・放っておいて欲しい。どうせ、助かっても売られるか惨めな扱いを受けるか、あるいは両方 の環境に置かれるのだろう。だったらこのまま眠りたい。そうすればこの悪夢だって終焉を迎えら れるだろう。 その思いをそのままに、「・・・売ったって、たかが、知れてる。どうせ、手遅れだよ。残念だった ね、・・・・・・やっと、終われるんだから。邪魔、しないで」酷薄に笑った。お前が目をつけたのは粗 悪品で、不良品。生憎だったね、利用できないものに無駄な時間を取られたんだ。怒る? 殴る? もうどうでもいい。 だってやっと、終われる。 「終わらせない」 やけにきっぱりとした声だった。 悪びれもなく真実そうしてやるものかと言うように。事実そういうニュアンスを含ませて頭上から 傲慢とも取れる言葉が突きつけられる。 想定外の事に一瞬意識がどこかへ吹っ飛んだ。思わず目を見開く。 「・・・・・・なに、言って」 「終わらせないと言った。ちなみにお前に拒否権は無いぞ、クソ餓鬼」 巫山戯てるのかこいつ。 思って、半分だけ開けていた目を全てこじ開ける。にやりと意地の悪い笑みを浮かべた男がそこに いた。その思い遣りの欠片も無さそうな笑顔にムカっ腹が立つ。 やはり巫山戯ている。 抱き込まれた腕の中から、八つ当たりも兼ねてその顔を思い切り睨み付けた。 「・・・・・・もう、死ぬのに?」 「ンな事ァ知ったこっちゃねぇ」 ・・・・・・なんて俺様な発言だろうか。 しかもそれが許されそうな造形の持ち主なだけに余計に苛立つ。 「・・・勝手な事、」 「さっきも言わなかったか? 拒否権は無ェってよ。俺に見つかったのが運の尽きだ。それに、そ  んだけ減らず口叩けるんだったらそう手遅れでも無ェだろ。クソ餓鬼」 「・・・・・・・・・・・・は、」 開いた口が塞がらない。天上天下唯我独尊な物言いに、怒りよりも呆れよりも疲れが出た。今のや り取りで精根尽き果ててしまったような気がする。いや、確実に減った。自分の顔が歪むのが分か る。あぁ神よ、大して信じちゃいないけど、久しぶりに遭遇した(生きた)人間がコレってどうな んですか。 「つう訳だから、さっさと行くぞ」 お願いだから人の話を聞いて欲しい。ていうか、聞けよ。 声を大にして言いたいが、気力が根こそぎ削がれた今は疲れた吐息が口から出るだけだった。 畜生、体力が余ってたら罵詈雑言を吐いた挙げ句に急所潰してやるのに。 思考がそちらに脱線している間にも、事態は進んでいたらしい。ぐいっと持ち上げられて体が浮き 上がる。 「!? ちょっ、・・・どこ行くの!」 「俺ン家」 いやそうじゃなくて! 命が助かったはずなのに、なんの有り難みも感じないのはひとえにこの微妙に噛み合わない応酬の おかげだろう。会話のキャッチボールどころか大暴投だ。誰が取れるかそんな球。 あっさりと告げられて、「いいから大人しくしてろクソ餓鬼」頭を抑え付けられる。普通に痛い。 いっそ鮮やかなまでに軽やかに自分を無視して、男はさっさと歩き出した。 どっと疲れが押し寄せる。大きく息を吐いて体から力を抜いた。ぐったりと男にもたれる。もう、 抵抗する気すら起きない。 「・・・意味、分かんない・・・・・・」 「そりゃ随分と回らない頭だな」 「・・・だって、誰も知らないし、教えてくれなかった・・・・・・」 男はそれを聞いた途端、ぴくりと眉をしかめる。 だがそれに気付く事なく、幼い少女の口からは更なる言葉が紡がれた。 「気付いたら、周り、誰もいないし・・・ここがどこかも、知らない・・・・・・」 はぁ、と肺に溜まっている空気を吐き出しながらの台詞に、沈黙が返る。返事がない事におや?と 思ったが特に気に留めずにそのまま言葉を切った。 自分が思っていたよりも、私は案外、相当まいっていたらしい。吐くつもりもない不安や弱音が次 々と口から出てきた。聞かせるつもりのない感情が、意志に反して相手に伝わる。 それはまったく無意識での事だったが、運の悪さを愚痴りたくなっただけの独り言だった。 それが相手にどう受け止められるかを考えもせずに、つらつらと愚痴は続く。 「どうして私が、ここにいるのかも、知らない・・・・・・」 途方もないそれは、静かに声も出さず泣いているように聞こえた。事実、自分が何を話しているの か、すでに意識は混濁していた。強がっても、そろそろ体力は限界寸前である事には違いない。そ ういう意味では、確かに泣きそうだった。なまじ成人していただけに、あまりの体力の無さに悲嘆 に暮れる。 男はしばらく黙って幼子の弱音を聞いていたが、再び少女が沈黙すると口を開いた。 「そりゃ、あれだろ」 「・・・・・・・・・・・・?」 「俺様に拾われる為に行き倒れたんじゃねェの?」 は? ものすごい発言に眩暈を感じ、思わず口をぱかーっと開ける。思考がフリーズした。 決してときめきだとかそういう類のものではない。そんなアホな、という意味合いでの事である。 これを運命の出会いと言うなら世の夢見がちな少女の何人が絶望するのだろう。 ロマンの欠片もない巡り合わせ過ぎるだろう、明らかに。 そんな事を口にするとは思わず、思考は旅立ったまま帰ってくる気配を見せない。 『捨てられた』と言わず、敢えて『行き倒れていた』と表現した男は、変な所で不器用だった。 「・・・・・・・・・どういう理屈なの・・・・・・」 「うるせェ」 呆れたが、ふと可笑しくなってふっと吐息だけで笑う。 ただの成り行きだっただけだろうに、いかにも義務であるかのように尊大に言い放つ男。 下からでも分かる、不機嫌そうで、けれど怒っているわけではない顔に微笑んだ。 目を閉じていたから気づけなかった、この男の表情。それは言葉よりも雄弁にその内情を語ってい た。呆れて思わず目を開いたが、それに気付いてしまっては笑うしかないだろう? 無くしたと思っていた運と命は半ば無理矢理に押し返され、見知らぬ男に抱きかかえられるという 本来なら危機感を覚えなければならない状況下の中で、人攫いだ人身売買だと思わない自分が不可 解で可笑しい。 あぁ、大分自分もキてるのかもしれないなと思いながら、それでも、悪い気分ではなかった。 「・・・・・・変なの・・・・・・」 嬉しいと思ってる自分がいるなんて、この上なくらしくない。 人と関わらない方がいいと思いながら、それでも人の温もりを思い出してしまった私は、もうその あたたかさを拒否する事ができなかった。 目を、閉じる。 綻ぶ口元が、それから言葉を発する事は無かった。代わりに穏やかな寝息が静かに空気を震わせる。 次に起きた時には名前を聞いてみようか。こんな死にかけた子供を拾う、奇特な男の名を。 そんな決意を胸に、少女は久しぶりの安寧に身を委ねた。 (07/06/24)