行きはよいよい帰りは怖い
それは敦盛を家に送る途中での事だった。現代と違って道路が整備されているわけではなく、帰り
道は鬱蒼とした森を突き抜け。時々躓いて転びそうになる敦盛に注意を向けながら、歩を進めてい
た時、ふと鼻孔をくすぐったもの。
微かに漂ってきた、鉄さびの匂い。
いつもは無い変化に眉を寄せる。敦盛も普段と違う森の気配を察したのか、びくんと強ばり服の裾
をぎゅっと握って縋り付いた。それに穏やかな声で大丈夫、と笑みを向けて頭を撫で、恐怖を鎮め
る。気休めみたいなものだったが、それで幾分か安心したのか敦盛は小さくこくりと頷いた。素直
だ。ポン、と手を置いて良い子だ、と笑う。このまま別の道を行くのも良いが、生憎私はこの道以
外に敦盛の家に続く道を知らない。そして敦盛もまたこの道以外を通った事がなく、結局進むか戻
るしかない。怖いなら怖いと言えばいいものを、この子は気丈にもそんな言葉を一切使わず何の事
でもないと首を振る。そういえば敦盛は武家の子だと聞いた。武家とは弱音を吐く事すら許されな
いのだろうか。確かに弱音ばかりでは部下に示しはつかないと思うが、子供の時くらいそうした弱
さを認めてもいいだろう。恐怖に打ち勝つ事も大事だが、感情を抑え込むのは子供の教育上よろし
くない。
「これ以上進むのは怖いから、引き返してまた時間が経ってから行こうか」
「え?」
きょとん、と不思議そうに見上げてくる瞳に微笑む。潤んだ目が小動物のようで何とも愛らしい。
これで男だっていうのだから世の中間違ってる。いや可愛いからいいんだけど。無防備に向けられ
る純粋な眼差しに苦笑して、困ったように眉尻を下げる。
「帰るのは少し遅くなっちゃうけど、その方が安全で安心だし、何より怖いんだ。私が」
「あねうえが?」
「うん、そう。もしも向こうでまだ不埒者がいたら、危ないでしょう。だから、戻ろう」
怖いんだ、と小さく笑う。敦盛が怖がっているからではなく、私が怖いから。だから引き返そう?
そういう風に仕向けて。これなら敦盛が自分に対して負い目を感じる事も無いし、さりげなく彼を
危険から遠ざけられる。何だかすっごい意外な目で見上げられるけど、それは笑顔でスルー。
ね、と畳み掛けると敦盛の顔が安心したようにホッと緩み、次いではい、と返事が返った。良し。
じゃあ行こうか、と引き返そうとした所で、小さな、切羽詰まった声が風に乗って流れてきた。幼
さを残した、高い声。焦りを色濃く映した驚愕と悲鳴が混じった声が。
『兄上ッ!』
その声に私よりも早く敦盛が反応する。先程までの和んだ雰囲気が一変し、返しかけた踵を途中で
とどめて振り返った。小さな唇が戦慄く。それに気付いて首を傾げた。敦盛は何を感じ取った?
「今の声は・・・・・・・」
「敦盛?」
「まさか・・・・!?」
「! 敦盛ッ!」
バッと駆け出した敦盛を遅れて追いかける。予想外の行動に顔を歪めた。同時に舌打ちする。敦盛
の知り合いだとは。
敦盛の言葉を聞く限りそうなのだろう。しかも『兄』。彼の家族か、先にいるのは。きっと今の敦
盛には恐怖というものがない。ただ身内の危機に我を忘れて一心に駆けている。その速さたるや、
まるで敦盛では無いかのような走りだ。火事場の力が成せるものか。けれどそれは今の状況では有
り難くない。
敦盛は騒ぎの中心に飛び出した。
「知盛殿、重衡殿!!」
「なっ、敦盛殿!?」
敦盛は目の前の光景に呆然と立つ。
そこには賊に囲まれ、その一人と剣を交えている同族の少年が一人と、そこから少し離れた場所に
佇むもう一人の少年がいた。地に横たわってピクリとも動かず血を流す護衛らしき数人の姿が目に
映る。少年二人は剣を持ち応戦しているが、多勢に無勢、おまけに大人が相手。敵うわけも無いの
は目に見えていた。割って入った声に刀を持った男が数人振り返る。どう見ても味方とは思えない
下卑た声。
「ほう、兄弟か?こりゃ都合がいいなぁ」
「、ぁ・・・っ」
敦盛の介入により少年二人を取り囲んでいた賊は、彼の服装を見て一様にニヤリと笑った。それに
気付いた銀髪の少年は焦った表情を浮かべる。敦盛は何の武器も所持していない。飛んで入ってき
た獲物に、汚い身なりをした山賊たちは己の運の良さに高揚した。今日はついてる。
「へっへっへ。このガキもついでに攫っちまうか」
「おお、そりゃいい考えだ」
「そうと決まりゃあ、早速こいつも・・・・」
「―――――ッ!」
「ッ、敦盛殿逃げろ!!」
叫びは今の敦盛を動かすに充分では無かった。怯えきった敦盛の目は、自身に伸びてくる手に恐怖
し震えている。脚はすくみ、一歩もそこから動けない。走って逃げる事もできない。何もできない。
「やめろ、彼に手を出すな!」
少年が一人が飛び出してくる。もう一人は剣を受け止めている為そこから動く事ができない。だが
大人の力に子供が適うはずは無く、呆気なく少年は一振りで弾き返された。吹き飛ばされた身体が
宙を舞い地面に叩きつけられる。それを見た敦盛はますます身を強ばらせガタガタと震えた。
怖い、怖い、怖い、怖い、怖い。
誰か、たすけて
誰か
―――あねうえ―――――!
「私の弟に手を出すなんて、覚悟は出来てるんでしょうねぇ?」
聞こえた声に、真っ白だった頭に色が戻った。
敦盛は震えていた身体をぴくりと反応させ、間近で聞こえてきた何かが潰れたような音にハッとし
た。同時に目の前に何かが遮って大きな壁を作る。
「がッ!!?」
「!!」
「な、何だぁ!?」
突然の事に慌てた様子の山賊は、驚いて新たな介入者にそれぞれ声をあげる。そこにいたのは怒り
に眉根を止せ、腰の鞘から剣を引き抜いた状態の一人の少女がいた。その場にいた全ての視線がそ
の一人に集中する。本人はただ淡々としていた。山賊に向かってハッと小馬鹿にしたように嗤う。
「あらまぁ、大の大人が子供二人に寄ってたかって情けない。群れなきゃ子供にすら勝てないのね
可哀想に」
「なっ、何だとこのアマ・・・・・・ッ」
「しかも人の大事な弟に手を出そうなんていい度胸ね。自分より弱い奴しか相手にできないクズが」
言うだけ言って、少女はトン、と軽く地を蹴った。
腕を、刀をふるう。
無駄のない動きで、確実に倒していく姿にただただ少年達はそれに見入った。時間にして数秒の出
来事。
ヒュン、と刀に付いた血を振り払い鞘に収める。呆気ない。だがこの子達はどれ程の恐怖を味わっ
ただろう。
「敦盛、怪我は無い?」
「あ、ねうえ・・・・・・?」
「うん」
敦盛は信じられない思いで目の前の人物を凝視した。限界まで目を見開き呆然と佇む。
何が、何を、どうして、一体。
何が何だか分からなかった。けれど一つだけ分かる。とても怖かった。怖かったのだ。どうしよう
もなく。ただ怖くて怖くて何も出来なくてただひたすらに怖かった。
今目の前にいるのは誰だ?一瞬分からなくて恐慌に身を震わせる。
さっきまでいた怖い男の人じゃない。女の人。見知った人。自分と兄を助けてくれた、唯一の。
それが誰だか認識した途端、敦盛の目から臨界を越えて大粒の涙が零れた。
「・・・・・あ、ねうえ。あねうえぇぇ・・・っ」
ぽろぽろと涙を流す敦盛を抱きしめる。そしてあやすように何度も何度も背中をさする。もう怖く
ない、と優しい手つきで。最初にこの場にいた、少年二人の痛いほどの視線をひしひしと感じなが
ら。
「怖かったね。もう大丈夫だよ敦盛。そこの君達も怪我はない?」
「あ、いえ・・・・・・・あの、助けて下さり、ありがとうございました」
「いいわよ、気にしなくて。無事なら良かったわ」
立派な着物を着た銀の髪を持つ子供に笑いかける。双子か何かだろうか、傍らに立つもう一人の子
も銀髪だ。良い身なりをしている。不逞の輩に目を付けられるのも仕方ないと言えば仕方ない風体。
よく似た顔立ちの二人は、しかし目つきというか雰囲気はまるで違う。対のようだ。静と動。そん
なような。敦盛とよく似た丁寧な口調で礼を述べる一人とは対照に、一人はこちらを伺う目をして
見ている。それはそうだ、初対面の正体不明な人間に不信感を持つのは当然。しかも襲われた後な
ら尚更。
まぁどんな風に見られようとも自分には関係ない。直接関わり合いになりそうも無いから。
うん、でも流石にジッと凝視されちゃ居心地が悪いというか、やりにくい。
「そんなに睨まないで欲しいな、少年。別に危害を加えたりはしないよ」
「・・・・・・・・・何者だ」
「敦盛の・・・・・・・何だろう、義理の姉みたいな関係?血の繋がりはないけど、仲良くさせて貰ってる
よ」
「・・・・・・・・・・・・」
少年の鋭い目は消えない。
信じられないか。まぁいいけど。
「怪しい?でも嘘は言ってない。信用しなくてもいいよ。君の問題だからね、それは」
感情の読めない子供の目から視線を外し、腕の中の敦盛に手を伸ばす。泣きはらした目は赤く腫れ
て頬には幾筋も涙の跡が残っている。それを指先で拭って頭を撫で、立ち上がった。いつまでもこ
こにこうしてたってしょうがない。
「さて、少年達も早くここから立ち去りなさいね。敦盛、帰ろう」
「待て」
「ん?」
「・・・・・・・・・・・・俺達は、迎えだ」
「迎え?」
「はい。母上に言付けされて、共に帰ってくるようにと・・・・・・」
あぁ、そういう事か。
だから帰り道の途中で君達がいたと。思わぬアクシデントも起きたみたいだけど。
「そう。じゃあここでお別れね」
別れの意味を込めて敦盛の手を放し頭に手を置く。そこに遠慮がちな声が響いた。
「あの、」
「ん?どうしたの少年」
「私は、平重衡と申します。差し支えなければ、その」
「あぁ、そう言えば自己紹介してなかったっけね。私はよ。重衡君、と呼んでもいいかしら?」
「は、はい。あの、殿は先程、敦盛の義姉だと・・・・・・・」
「あー、うん。何でか慕ってくれてね。で、そこの君は?」
「・・・・・・・・・・」
「名前。教えてくれると嬉しいんだけど」
「・・・・・・・・・・・・・・知盛」
「そう。知盛。・・・弱い自分が、情けないのかな?」
「・・・・・・ッ!」
ぎゅ、と未だ手に持ったままの柄を握り、刀の鍔が音を立てる。知盛は悔しそうにその目を炎で揺
らしながら、をギッと睨んだ。けれどそれは憎々しいからでは無く、図星を指された恥ずかし
さと自分の無力さが歯痒いからで。
何も言わずただひたすらに真っ直ぐ見つめる双眸に、強いな、と内心で感心した。自分が弱い事を
知ってなおそれを受け止めている。八つ当たりも責任転嫁も一切しないで。この年で何とまぁ、先
の楽しみな事だ。
「いいようにされたく無かったら、いつまでも守っては貰えない事を知っているなら、強くなり
なよ」
「・・・・・・・・・どうやって」
「どうって、そりゃ誰かに師事して貰うとか。自分だけじゃどうしても限界があるし」
「ならば、お前の剣を教えろ」
「へ?」
「兄上!?」
ぎょっとして銀髪の片割れ、重衡が知盛を振り返る。けれど驚かせた当の本人は至って平静で、じ
っと私の顔を見ていた。はっきりとした意志を瞳に宿らせて、真剣に私の目を射抜く。逸らさず揺
らぎもせずただ真っ直ぐに。
・・・これは、何を言っても引かないな。
そういう目だ、彼の目は。一途なまでの思いは貫かれど曲げも折れもしないだろう。まぁ単純に言
えば単なる我が侭だが。
「それは無理な話だわ。悪いけど、今お世話になってる所でも働いてるから」
「なら移り住めば良い」
「いやそんな簡単に言わないでね。恩人の家にお世話になりっぱなしで肩身狭いんだし」
「・・・・・・・・・」
知盛は不満そうだ。重衡と敦盛はオロオロと両者を見比べている。無理と言っても諦める気は無い
のか、知盛は不快そうに顔を歪めるが視線は外さない。・・・・・・仕方ない、妥協案を提示するとしよ
うか。押しても引いてもこの少年は絶対に引きそうにもない。
「でも、時々なら教えてあげられるよ。予定が空いてたら帰りに敦盛に伝えるし」
「・・・・・・・・・本当だな?」
「心外ね、嘘はつかないわよ。それでも良いなら相手をしてあげる。それで妥協して頂戴な」
「・・・分かった」
こくりと頷く。素直だ、意外と。
なんだ、ポーカーフェイスなんだな。可愛いなこいつ、と笑う。
「さぁて、じゃあ話も終わった所で敦盛は帰んなさい。気をつけてね、重衡君、知盛」
「はい、あねうえ!」
にこお、と敦盛が笑顔全開で頷く。あ、今クラッと来た。あぁもう可愛いなぁ敦盛!ファンファー
レを鳴り響かせる脳内が良い具合に理性を押しのける。天使だ。天使がいる。頬を赤らめて言う敦
盛にこちらも癒されて無意識のうちに笑顔になる。
と、物言いたげな重衡の視線を感じて下を向くと、何か言いづらそうに逡巡する重衡が上目遣いに
見つめていた。首を傾げる。何か言いたい事があるのだろう、そう思って言葉を待つも一向に声は
聞こえない。
「どうかした?重衡君」
「・・・・・・・・・・・・・・・あ、の」
「うん?」
「その、私、も」
「うん」
しゃがんで目線を合わせる。
けれど重衡は目を合わせる事を恐れ、視線を外して俯いた。咎められた子のように。
それに私は苦笑して言っていいんだよ、と安心させるように微笑んで頭を撫でた。
さらさらで手触りの良い髪質。銀糸はまるで絹のよう。
それに背中を押されて、躊躇いがちな声が小さく震えた。
「あの、私には兄上や弟はいるんです。でも、」
「うん」
「・・・けど、姉上は、いないんです」
「うん」
「だから、さっき、お名前をお聞きしましたけれど」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・それではなく、私も、ご迷惑でなければ、その、姉上、と」
「うん」
「・・・・・・・・・・・・迷惑、ですか?」
「ううん。それは、私にとって願ってもない事だよ、重衡君」
おそるおそる、見上げた目にうっすらと見えた不安と怯え。拒絶されたらどうしよう、嫌だと払い
のけられたらどうしよう、そんな恐怖。それを打ち消すように笑った。ありがとう、と嬉しさと感
謝を混ぜて。
「私もね、弟が増えて嬉しい。ありがとう、重衡君」
「い、いえ、礼など。むしろ私がそれを言うべきでは・・・」
「いいんだよ。嬉しい事をされたらお礼を言うのは当然でしょ?」
「・・・・・・ありがとう御座います、姉上」
「どういたしまして。さ、もう帰んなさい。で、知盛」
「・・・・・・・・・何だ」
横目で見返されておや、と目を丸くし知盛を見つめる。さっきは素直だと思ったがどうやらそうで
も無いらしい。兄弟とはここまで性格に差が出るものか。けれどその違いが個性的で面白く、好ま
しい。多少不機嫌な声にニヤリと笑い、口を開いた。
「私の弟なら、二人を任せても大丈夫だね?」
知盛が驚いて顔ごと振り返る。敦盛も重衡も同じように私を見上げて。知盛は憮然とした顔つきで
顔を背けた。弟二人は笑っている。私は含みを込めた笑みで知盛の背を追った。猫みたいだな、知
盛は。
「・・・・・・・・・・・・行くぞ」
「はい、兄上」
「今参ります」
ぱたぱたと兄の後を追って二人が駆ける。嬉しそうに。にっこりと笑って。夕日がそれを照らす。
仲良きことは美しきかな。約一名何でもないようなな顔してるけど。
「では、姉上。また」
「うん、そうだね。気をつけて。またね」
手を振る三人を見送り、姿が見えなくなるまで見守る。
まさか弟が一気に二人も増えるとは思わなかった。さらに言えば剣の指南役を申しつけられるとは。
そうして意外だったのが知盛の反応だった。相手は武門の貴族。いきなり現れた女が姉になるなど、
無礼以外の何でもない。拒絶されるだろうと思っていた。その場を和ませるための冗談のつもりだ
った。けれど、返ってきたのは無言の快諾で。
知らず口元がつり上がる。ああいうのは嫌いじゃない。
すでに見えなくなった背を見送り、髪をかき上げる。
さて。
可愛い弟たちを襲ってくれた連中に、たっぷりお礼をしなくちゃね?
(06/01/20)
(06/01/06)加筆・修正