振り返れど影は見えず


カン、カンッと小気味の良い音が辺りに響く。振り下ろされた薙刀を避け、弾き、また受け流し、 返しては逃げるような動き。それは流水のようだとも、ひらひらと舞う蝶のようだとも、後に熊野 の頭領は語った。緩やかで激しい攻防。短い気合いの声。 「はっ!」 弁慶は鋭い一撃を繰り出し、薙刀に己の体重を載せて一歩踏み出した。これで勝負はつく。そんな 半ば確信に近い、絶対の自信を持って。けれど彼が今相手にしているのは、弁慶自身知らない事と はいえ、かつて昔は中国の蜀に身を置き、戦乱を駆け抜け、数多の武将を相手にし、また討ち取っ た者。ほんの少女であるはずの彼女は、誰もが決定打と思った斬撃を短剣で受け止め、ニヤリと笑 った。真正面からその瞳と対峙した弁慶は、一瞬それに目を奪われて動きを止める。何を・・・と考 えたところでハッとし、急いで身を引こうとピクリと指先を動かすが、もう遅い。 「う、わっ!?」 弁慶の重い一撃を受け止めた少女は、片手で薙刀の棒部分を掴むとぐいっと自らの方に力いっぱい 引き寄せ、それにバランスを崩した弁慶がたたらを踏むとキラリと目を輝かし、華麗に足払いを喰 らわせた。少女に対し全くの無防備状態だった弁慶は、当たり前と言えば当たり前だが見事に転倒 する。土埃を立てて地面に転がった弁慶は慌てて起きあがろうとして、気付く。自分の手にあった 薙刀が彼女の手に渡り、それを自分の首に突きつけている事に。目を見張る弁慶に刃を突きつける 少女は相も変わらず微笑を浮かべ、弁慶はその冷えた切っ先が寸分の狂いもなく人体の急所にある 事にようやく我に返った。苦笑して視線を合わせる。 「参りました」 野次馬という名の見学をしていた周囲の観客が、示し合わせたように時を同じくしてほぅ、と息を 吐く。二人の討ち合い開始以降、ずっと緊張して張りつめっぱなしだった空気は自然と手に汗が浮 かばせた。ただの戯れの延長だったはずのそれは、いつの間にか本物の戦場、本物の討ち合いのよ うで。触れれば即座に切れてしまいそうな闘牙と冴えた技のぶつかり合い。気迫が周囲を圧倒する 試合は、ともすればこのまま終了しないのではないかと思った程の。屈強な熊野の民が見入り、時 間を忘れさせる程の手合わせ。少女はニッと口角を吊り上げる。 「気が済んだ?」 手を差し出した少女に、弁慶もまた口元を歪ませて苦々しく笑う。明らかに悔しいと感じている事 に気付いているくせに、構わずそう言うのは彼女の性格である。それでさらに自分の未熟さを感じ つつ、弁慶は覇者の如き堂々と勝者の笑みを浮かべる少女の手を取った。 「えぇ、まだまだですね、僕も。ですが次は負けません」 対抗しようと思ったわけではないが、彼女に似た不敵な笑みを口元に浮かべて緩く笑って言うと、 少女はきょとんと目を丸くした後、楽しそうに声を上げて笑った。負けず嫌いだなぁと愉快そうに 弧を描く唇と目。けれどそれは彼を嘲るなどといったそういう類のものでは無く。また弁慶もそれ を分かっているからこそ気分を害するでも無くただ笑う。もっと腕を磨こう、と胸中で誓って。 それから彼は一度も、彼女から勝利を得る事は叶わなかった。自分達に何も告げず、忽然とその姿 を消した少女。少女がいなくなってから何日が過ぎただろう。彼女というある種の目標を失った自 分の、この気持ちはどう消化させればいいのかも分からず。 「勝ち逃げは許さない、と・・・・・・・・そう言ったはずですよ」 彼女の放った一言が甦る。また今度ね、と彼女は言った。けれどそれは実現などせず、ならばこの 焦燥はどこへ向ければいいというのだ。 彼の地で交わしたやり取りを思い出し、ぎゅっと薙刀を握れば脳裏を過ぎる懐かしい日常。己の手 に収まるそれは、使い込んだ証があちこちに刻まれて傷だらけで、しかしそれが彼の誇りであり支 えであり、目標と憧れを思い出させてくれる聖刻だった。 何度も挑んでは負けていた。一度として決定打など与えてはくれなかった。 かき消えたその存在を求めるように、五条大橋へ赴いた。 けれど何度刃を交わしても、何度誰とも知れぬ者を相手にしても。 彼の人はここにいない。 月の光が雲の遮りを突き破り、橋に立つ弁慶の姿を朧気に浮かび上がらせる。 淡い光のカーテンが彼のみならず橋全体を滑るように降り注ぎ、弁慶は自分以外の人影に目を留め る。弁慶は薄笑いを浮かべ、一歩前に出た。 「・・・・・・・・・荒法師か?」 確認するように口を開く名も知れぬ男に笑みを深める。この時間帯にこの場所で、こうしているの がそれでは無く何だと言うのか。胸中で嘲り、あぁ、また命知らずが来たのかと目を細める。 「えぇ、そうですが。僕に何かご用でも?」 弁慶は穏やかでありながら鋭く光る目を男に向け、射るように真っ直ぐに見つめる。そこにいるの は故郷の民でもなく、また刃を交えたいと願ったその人でもない。それが少し、寂しくもあり哀し くもあった。 弁慶はそっと瞑目する。 貴女の強さは憧れでした。 意志を宿すその魂は鮮烈で、何よりも守りたい大切なものでした。 僕にとって決して手に入れる事は叶わない、至高の永遠でした。 その背に追いつこうとする僕は、まるで親を越えようともがく幼子のようで。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・手の届かない、絶対的な貴女を。 「それならば、簡潔にお済ませ下さいね。生憎僕は貴方に興味はカケラも無い」 「っ、言わせておけばッ!」 彼の手は今日も血に染まる。 ほんの少し、陰りの宿る目を闇に隠して。 (05/12/11) (06/01/06)加筆・修正