五臓六腑の人間模様


・・・・・眠れない。 は床について73回目の寝返りをしてむくりと起きあがった。 外では夏の虫が細く高い声で鳴いている。 風情のある光景だが、いかんせん今のにはそれを楽しむ余裕など無い。 なぜなら。 寝苦しいのだ。暑くて。 あぁ、クーラーと扇風機が欲しい・・・・・ビバ高度文明の利器・・・・・・・・。 熊野の夏がこんなに暑いなんて知らなかった。いや夜はまだマシだけど、今日は風が無い。冷房機 のありがたさが身にしみて分かった。が、それが平安時代も末期の日本に存在する訳がない。むし ろあったらその方が色々と問題だ。どういう世界に迷い込んだんだよ自分。 仕方がないのでふらふらと立ち上がり、涼しさを求めて外に出た。夜空には都会ではまずお目にか かれないであろう満天の星が瞬いている。夏の大三角がどれかも分からないが、無数とも思える星 の煌めきとその眩しさに目を細めた。 しんとした心地よい静寂の中、時折虫の声が空気を震わせる。 青白い月明かりが夜を照らす中、穏やかそうな男性の低い声が柔らかく耳を打った。 「このような夜更けに女性一人で外に出るのは、あまり感心できませんよ?」 ふいに、月明かりの影から一人の人影が動いてその身を月光にさらす。 すぐにそれが誰だか分かり、は半身だけ振り返って微笑みかけた。 「暑くて眠れなくてつい、ね。ところで弁慶はどうして外に?」 「無防備に一人で出歩く貴女の姿が気になりまして。  いけない人ですね。夜は危ないのですよ?特に、貴女のような魅力的な方には」 困ったように眉を下げて、弁慶は眉尻を下げて笑う。 前半はともかく、後半の弁慶の台詞にクスクスと笑みが零れた。 全く危機感を感じていない様子の少女に、弁慶はわざとらしく溜め息なぞついてみせた。 ここ数日でがそこら辺の女性達とは違う一癖も二癖も変わった女性だとは分かってきたが、眠 れないにしてももう子の刻過ぎだ。さすがにこれは見過ごせない。いくらここが熊野水軍の頭領の 邸宅だからとて、絶対に安全とは言い切れないからだ。 だがその溜め息に、少女はそれをケラケラと笑い飛ばした。 「大丈夫だって。ここの人達はみんな優秀な人ばっかみたいだし」 「・・・・・・・・・・・・どういう、意味でしょうか」 「分かってるくせに聞くのは野暮ってものですよ」 くつり、とは喉の奥で笑う。 何もかも見透かすような目に射抜かれて、弁慶は微かに身をすくめた。 まさか、とは思うが。 もしや、彼女は自分の思惑を既に知っていたのか。 平静を装いつつも、いきなりの核心を突く言葉に動揺は隠しきれなかった。不自然に空いた間に気 付いているだろうに、目の前の少女はそれを気にした風も無くただ妖艶に笑う。 「私から見ても、自分がいかに怪しい人間かは分かってるつもりですよ。  もちろん、そうする必要があったのも理解して、の上で」 やはり。 弁慶はその時、自らの仕掛けた策略が既にこの少女によって暴かれていた事を知った。 気付いて、いたのか。 弁慶は推測を確信に変えて、月明かりに照らされる少女を見つめる。 は艶やかに微笑んだまま、身動きもせずに弁慶をじっと見ている。 彼女は監視に気付いていた。それもおそらく、最初から。弁慶はその事実に気付き・・・いや、気付か されて、驚愕の眼差しを少女に向けた。よもや、この少女に気付かれるなど予想だにしていなかっ たのである。だがなぜ、彼女は監視に気付いていながらそれに甘んじ、今まで黙っていたのだろう。 弁慶は浮かんだ疑問に眉根を寄せる。普通ならそんな扱いをされれば憤慨し、抗議の一つくらいは するものだ。誰だって四六時中見張られていれば良い気分はしないだろう。自分は彼女と知り合っ てからすぐに彼女に烏を付けた。素性も知れない人間を、熊野の頭領の傍に置かせておく訳にはい かなかったからだ。危険をむやみに近寄らせる訳にはいかない。たとえ冷酷と言われようが、自分 にはそうする必要があった。全ては熊野を守るために。だから弁慶は一人、独断で少女の動向を探 らせていた。仮にも熊野が誇る烏だ。そう易々と察知されるとは思いも寄らなかったが、まさか。 「・・・・・気付いて、いたんですね」 「まぁね」 「・・・・・怒らないのですか?僕は、貴女に黙ってずっと見張りを付けていたんですよ?」 「怒る?私が?どうして」 問いを問いで返されて、弁慶は言葉に詰まった。何も言えずに、ただただ口を閉ざして真顔になっ た少女と目を合わせる。少女は、おどけたように笑って肩をすくめた。 「何もしてないのに疑いの目で見られて見張られるのは不快ですけど、いきなり経歴不明の人間が  近付いてきたら私だって警戒くらいはすると思いますし、仕方無いんじゃないでしょうか。自分  でも怪しいって思ってるくらいなのに、むしろ疑わない方が危ないと思いますしね」 責めるどころかそれは正しい行動だと口にする少女に、弁慶は呆気に取られて目を丸くした。そん な事を言われるとは微塵も思っていなかっただけに、驚きは一層増す。悲観にくれるでも無く嫌悪 する訳でも無く、それが当然だと言うように大きく頷いてあっさりと言うなんて。少女はそれっき り固まって沈黙した弁慶にどうしたの、と首を傾げた。 ・・・・・・・・・・・・へんじがない、ただのしかばねのようだ。 いや、巫山戯てる場合じゃ無いんだろうけど。 でもだっていきなり固まられちゃ、誰だってビックリだと思うんだけど。てか、私が無防備だって 言うんなら今の弁慶も相当無防備だと思うのですが。 声を掛けられた弁慶は、少しのちに呆然とした表情を崩し、クスクスと笑い出した。しまいには腹 を抱えて心底おかしそうに声を弾けて笑い出す。ついに壊れたか、などと失礼な事を内心でのたま って、少女は不気味なものを見る目で弁慶から一歩引いた。だって怖いよ、突然笑い出すなんて。 「あははははっ。ヒノエが言った通りだ。貴女は本当におかしな方ですね」 「爆笑して言う事がそれか。ヒノエが言った時は失礼だとかぬかしてたくせに・・・」 「くくっ・・・いえ、すみません。ですが、あまりに予想外で。そう仰るとは思いも寄りませんでした  よ」 未だくつくつと笑い続ける弁慶に、は訳が分からなくてますます首を傾げた。弁慶は片手を挙 げて謝罪の意を示したが、なんでだろう、あんまり謝られた気がしない・・・・・。何故だか沸き上が る不満感にむっとするが、どうせ今の弁慶には通用しないと分かっていたので押し黙った。 「ああ、こんなに笑ったのは随分と久しぶりだ」 「ああそう。そりゃあよーございましたねぇ」 投げやりに言うに、弁慶はともすればまた笑い出しそうな口元を抑えて言った。 さっきから何がおかしいんだお前。 憮然とした顔をすれば、弁慶はようやく治まってきた笑みに口から手を放し、苦笑した。 「すみませんでした、さん」 「ん?」 「僕は貴女をずっと監視して、貴女の事を僕がずっと疑っていました」 真摯な眼差しでそう言った弁慶に、は訝しげな目を向けた。 謝る、と言われても、それは仕方の無い事でむしろそうされるのが普通だと思っていたのだが。大 体、頭を下げられる謂われはこれっぽっちも無いのである。 「・・・えーと、つまりは、見張りはもうナシって言いたいと?」 「ええ。もうその必要はありませんしね。今まですみませんでした。僕は貴女を、少しも分かって  いませんでした」 「いや、会って数日の人間を分かるっていうのは無理があるかと・・・・・、一体どういう心境の変化で  すか?」 言いたい事の先を読んで尋ねるに肯定を示し、弁慶はふわりと柔らかく微笑んで目を細めた。 それは、まさに極上とも言える完璧な笑みで。思わず、その表情に見入った。 ・・・うわ、スマイルキラーだ。 こんな顔向けられたら落ちない女はいないだろうな・・・・・美形ってお得だ。 は今まで見た事も無い笑みを浮かべた弁慶をまじまじと観察する。 普段喰えない笑みって言うか何考えてるのか分からない笑顔なだけに、これって結構貴重なんでは なかろうか。それを拝める事が出来た私ってばラッキー?眼福だわ。目の保養だわ。うん、やっぱ り美形っていいよね。それが笑顔だとなお良し。 ・・・などと、ぼんやりと考えていると、微笑んだままの弁慶が香の頬に手を伸ばし、ゆっくりと 撫でた。 その手つきはどこまでも優しく、傷つけるなどというものとは一切違って。 慈しむようなそれに、今度は少女が固まった。 ・・・・・・・・・え、何。 なに、このシチュエーション。 目を見開いて、は穏やかに笑う弁慶を見上げる。 背ェ高いっすねー・・・首が痛いです。つか、べんけー・・・あなた別人みたいですね。そして何故私は こんな状況に放り込まれているんですか?おまけに何故こんなに距離が近くてついでに頬を優しく 撫でられてたりするんでしょうか。 困惑して弁慶を見つめるに、弁慶はにっこりと笑って言った。 「分かった、だけですよ」 「分かった?」 「ええ。貴女という人の事が、少しだけ」 見上げてくる少女に微笑んで、弁慶は柔らかい頬の感触を楽しんだ。 誰かに媚びる事もせず、甘えるだけの人間でも無く。鋭い洞察力に物の考え方、すべてが普通の女 性とは本当にかけ離れていて。泣いて責められると思っていた監視についても、本心からああ言っ たのだと分かって。貴女という人の事を知る事が出来た。それは決して不快なものでは無く、むし ろ。 「ふふ。ほら、もうこんなに冷えてますよ。そろそろ中に入りましょう、さん」 するり、と夜風で冷やされた頬を撫でて、にっこりとそう言った。 貴女に会えて、本当に。 そう、思う自分がいた。 降り注ぐ月光は、ただ静かに夜を照らしていた。 ---------------------------------------- まだ興味の段階ですよ。あしからず。ていうか恋愛に発展してくのかは、謎。 (05/09/14) (06/01/06)加筆・修正