終演


それに気付いたのは、いつ頃だっただろう。最初にそれを前にした時、とてつもない不安感に襲わ れたのを覚えた。それはおおよそ自分の持つ力、ひいては人の力などではどうしようもない事であ ると頭の片隅で理解していた所為かもしれない。否定したい気持ちを持ちながら、けれどそれは不 可能で。目を逸らしたくても、それは動かしようのない事実だった。 「タイムリミット・・・か」 誰に言うでもなく、呟いた。一度決定的に口にすると、それはそうであるとすでに決まってしまっ た事柄のように思えて、ブンと首を振る。それでも脳裏を過ぎった考えは私の中から消えずに、心 に影を落とした。 今の私の左腕は、半分がうっすらと透けていた。時間の経過と共にそれはどんどん進行していた。 浸食、と言っても間違いでは無いかもしれない。透けた腕で物を掴もうにも、肝心の手はその物を すり抜けて手に取る事が出来ない。月明かりに透けてぼんやりと浮かぶ自分の腕がひどく不気味で、 もの悲しかった。 私は、消えようとしている。この世界から。 その事実はやけに重いくせに、どこか浮遊感を持って私をゆらゆらと揺らす。これはもうずっと以 前から私の身に起こった現象だった。けれどこんなにも私の存在が不安定になった事はない。 透けている時間が、長くなっている。 初めはさして気にも留めていなかった。ただ目が覚めて自分のいた世界に帰るだけだと。そう、思 っていたのに。 「何か、幽霊にでもなったみたいで微妙・・・」 半透明の腕を見て、はあっと溜め息を突く。 予感だった。 もう私はここに来る事が出来ないだろう。その証拠に、以前であれば透け始めると同時に眠気に襲 われていたのが、今回はそんな状態にはならず、むしろ目は冴えていて眠れないのだ。時間が過ぎ ていく毎に、私という存在は希薄になっていく。白み始めた東の空に顔を向け、瞼を半分伏せた。 夜は明ける。 夢は覚める。 夢が、終わる。 それは誰にも止められない。 完全に消えてしまう前に、と、は筆を手に取った。 ここで過ごして思った事、感謝している事、そして二度と会う事は叶わぬ事を綴った最初で最後の、 手紙だった。 きっと、私が起きてこない、と、誰かさんは私を起こしに来るのだろう。誰もいないこの部屋を見 るのだろう。そうして、その知らせを伝えに走るに違いない。息を切らせ、全力で、私を捜すため に、自らが連れてきた人間を捜して、その足で駆けるのだろう。たとえそれが二度と叶わぬ事であ っても。 もう少し、ここにいたかった。たとえ一晩だけの夢の出来事だとしても。 彼らは優しかった。温かかった。居場所をくれた。 もっと、一緒にありたかった。覚めない夢を見続けたかった。 もっと・・・・・笑い合いたかった。 自嘲気味に哀しく笑い、筆を置いてぼんやりと光る月を見つめた。せめぎ合う気持ちは揺れていた。 けれど心は不思議と落ち着いている。自分でもおかしいと思えるくらい、静かだった。もしかした ら、心まで消えかけてるのかもしれない。有り得るなぁ、と内心で呟き薄く笑った。 何も言わず彼らの前から消える私を、当の本人達はどう思うのだろう。 いよいよ指先から消え始めた身体を見て、小さく息を吐いた。 願わくば、夢であったと思って欲しい。共に過ごした月日はただの夢であると。ありもしない幻な のだと。けれど、その願いとは裏腹に、出逢えた事に後悔は無い。会えて良かった。それは、彼ら という人間性に触れて感じた思いだ。 「・・・・・・楽しかったよ」 ありがとう。 朝を告げる鳥の声が、空の下で高く鳴いた。 それを耳にする事は無かったけれども。 「ー、朝なんてとっくに過ぎてるぞー。ホラ、敦盛も何か言ってやれよ」 「えッ。えぇと、皆さん待ってますよ。早く起きて下さい、あねうえ」 赤い色の少し癖のある髪を揺らせながら、ヒノエはある部屋の前に来ていた。 その隣には紫苑色の髪を結った敦盛が遠慮がちに声を掛ける。女性の、それもまだ寝ているのであ ろう人の部屋を前にしているのだからそれも頷ける。しかし、部屋から返事の声は聞こえ無い。ヒ ノエと共にを起こしに来た弁慶は、一向に返答のない気配にはて、と首を傾げた。 「起きてきませんねぇ」 「あいつ寝起き悪かったっけ?」 「ううん、そんな事無かったはずだけど・・・」 弁慶とヒノエと敦盛の三人は、そろって顔を見合わせた。普段女房が起こしに来る前から起床して いたが、今日に限って起きてこない。彼女に何かあったのだろうか。 ヒノエは目を瞑り何事かを考える様子で俯いたが、すぐに顔を上げた。 「よし。こうなったら無理矢理起こすか」 「ええっ?ヒノエ、それは・・・・・」 「起きてこない方が悪いんだろう?」 「そ、それはそうかもしれないけど・・・あっ、ヒノエ!」 敦盛の制止を無視し、部屋に足を踏み入れたヒノエは、しかし部屋の中を見渡して愕然とした。 寝坊したアイツをからかってやろうと、意気揚々と入っていったのに。 誰の気配も感じない部屋は、がらんとしていて空虚だけが支配していた。 誰も、いない。 まるで最初からそこに存在するものなど無かったと言わんばかりに。 そこにあるべき人の姿は、部屋のどこにも見られなかった。 「なん、で・・・・・?」 「ヒノエ?どうしました?」 訝しげに尋ねる弁慶の声が、遠くに聞こえる。 彼女はその日、熊野から、世界から消えた。 +オマケ。没になった後半部分+ 誰の気配も感じない部屋は、がらんとしていて空虚だけが支配していた。 誰も、いない。 まるで最初からそこに存在するものなど無かったと言わんばかりに。 そこにあるべき人の姿は、部屋のどこにも見られなかった。 「ヒノエ・・・?どうしました?」 弁慶が立ち止まったヒノエに声を掛ける。が、ヒノエはそれに返事もせず、微動だにもせず、ただ ただ沈黙していた。その様子に不安を覚えた弁慶と敦盛は、ヒノエに続いて部屋に入った。誰もそ れを咎める人はいない。部屋の主は、勝手に入る事を厭っていたのに。三人の中で誰よりもそれを 早くに知ってしまったヒノエは、呆然と口を開いた。 「いな、い・・・・・・・」 「ヒノエ?」 「誰も、いない・・・・アイツ、が、どこにもっ!」 「ヒノエ、落ち着いて!」 「何で、何っ、で、いない!何処に、隠れて・・・ッ」 「ヒノエ!!」 「何で何で何でッ!なぁ何でいないんだよ!隠れてないで出て、来・・・っ」 ヒノエのかすれた、必死な声。 しかしそれには、沈黙しか返ってこなくて。 「あね、うえ・・・?」 敦盛も呼んだ。彼の人を。彼が何よりも守ろうと誓った、その人を。 けれどそこにあるのは、しんとした静寂だけ。 「なにが・・・なん、で・・・っ!」 混乱するなという方が無理な話だった。誰もが不測の事態に困惑していた。 きっと今日も昨日と同じ日が続くのだと漠然と信じていた。 ねぇ、どこにいるの。 本当なら今頃貴女に、おはようと言って貰えるはずなのに。 いつもみたいに笑ってよ。 今日もいい天気だねって空を見上げて。 いつものように、優しく頭を撫でながらにっこりと笑って。 そうしてまた、一緒にご飯を食べながら、お話を聞かせてよ。 お願いだから。 冗談だよって、ビックリした?って。 軽い悪戯だって思わせてよ。 誰も、怒ったりなんかしない。 笑って、悪ふざけにも程があるって 仕方ないなぁって、無かった事にしてあげるから。 だから・・・ ぼく達の前から、いなくなったりしないで。 お願いだから、出てきてよ。 彼らの願いは、届かなかった。 (05/09/10) (06/01/06)加筆・修正