おじさん視点


ひどく雨が降っている日だった。 いや、先程まで晴れていたのに、突然空が泣きだしたように大粒の雫を落としたのだ。 まいったな、少し外に出るくらいのつもりだったのに。 慌ててコンビニで買った傘は、使用してからずっと雨粒を弾いて音を立てている。 リズミカルというには少し騒がしい。 透明なビニール傘は、激しい雨を受け止めて端から滴を零していた。歩くたびにそれが靴にかかっ て若干足下がひんやりする。 急いで帰らないと、心配させてしまうな。 そう思って足を速めた時だった。 「・・・・・・?」 前方に、ぽつりと小さい影がある。 何だろうと目を凝らせば、それは子供の姿をしていた。独りぼっちでそこに立ち、打たれるままに 雨に濡れている。 考える前に声を掛け、駆け寄っていた。子供が一人、こんな所でこんな風に雨に降られていて、ど うして放っておけるだろう。 声を掛けると、子供はゆっくりと振り返った。 表情がなく、まるで感情というものをどこかに置き忘れてきてしまったような顔。 驚いて一瞬顔が強張った。 (・・・・・・っ!) ひどく、痛ましい。 失礼な感想ではあるが、真っ先に少年に抱いた感情はそれであった。 彼はまだ子供で、こんな顔が出来る年齢ではない。多く見積もっても九歳ほどだろう。 その顔を見た瞬間、どうしようもない思いを抱いて仕方なかった。 普通、子供がこんな所で一人、周囲に誰もいない中で雨に打たれていれば、その子供は泣き出して しまうだろう。けれどこの少年にはそれが無い。そう、まるで一人で生きていく事を悟り、そうし ていく術しか知らないような。 子供にこんな顔をさせていて、いいはずがない。けれど。 この子供を、こんなにも子供でいさせ続ける事が出来なかったのも、自分たち大人なのだ。 「・・・・・・何か?」 ひどく大人びた顔と声で、少年が告げる。 怪訝そうな顔は、まるで「今更大人が何のつもりで声を掛けたのか」と言っているように聞こえた。 全身ずぶ濡れで、それでも自分という大人に頼る事をしない、いや、知らない目。 「君、こんなに濡れてるじゃないか。傘は? お父さんかお母さんは一緒じゃないのかい?」 だが少年が浮かべる顔より何より、濡れ放題の状態の方が重要だった。このままでは風邪を引いて しまう。 少年がこれ以上濡れる事のないようにと傾けた手が、少年の一言でぴたりと止まった。 「親はいませんが」 今、この少年は何と言った? 数秒間、自分の耳を疑った。親がいない? 呆然としていると、自分の手に少年の冷たくなった手が触れた。 ハッとすれば、それは傘をさしていた手を自分に押し戻す動作で。 ああ、この少年は守られるという意識すら無いというのか! それならば、なんという。 「じゃあ、お世話になってる人は?」 「もともと一人なので」 嫌な予感を振り払い、恐る恐る尋ねた問いに帰ってきたのは、またも信じがたい返答。 こんなに小さい子供が、一人で暮らしているだって? 何の冗談かと思った。同時にそんな事が有り得ていいはずがないとも。子供がたった一人で世間を 生き抜いていけるはずがないのだ。 では、ならばこの少年はいつから一人で。 さっきまで急いで帰らなければと焦っていた気持ちがどこかへ去り、代わりに心は少年の身元を確 認する事を訴えた。 こんな子供が一人などと、何かの間違いである事を祈って。 だがしかし、突きつけられた現実は望みとは裏腹に、残酷な事実を告げた。 親どころか、血縁者すらいない、天涯孤独。聞けば年齢はもうすぐ十歳になるという。 そんな小さな子供がこの先どんな人生を送るか、この年になればすぐに理解できる。 しかし、行き着いた考えにどうしても納得が出来なかった。 家族のぬくもりを知らないこの少年は、自分が傷付いている事にさえ気付いていないのだろう。 ・・・・・・いや。 気付いて、いるのだろう。心のどこかで。だがそれを素直に感じ、吐き出す事がこの少年には許さ れなかった。 吐き出されず、癒える事のない傷は少年の心を覆い尽くし、やがて少年を蝕み始めた。 それを無意識に防ぐために、少年は心を閉ざし、感情をシャットアウトしたのだ。自分の心を守る ために。 少年が選択したその方法は、いくつかの問題があるとはいえ確かに効果的だったのだろう。少なく とも少年の精神は崩壊してはいない。だがそれが少年に老成した思考と諦めにも似た順応を与え、 いつしかそれが当たり前になってしまった。 資料に目を通す様は大人しいながらも子供らしい。少しばかりの好奇心。だが、それだけだった。 そこに求めた名が無いと知るや否や、興味をなくしたように、すでのそのリストは不要だと言わん ばかりに、少年はあっさりと資料を手放した。 このままで、いいのか。 自問し、少年を見る。 警官の問いに、少年は首を振るだけだった。「今までどこで暮らしていたんだい?」「学校は?」 「何か食べたいものはある?」「誰か君を知っている大人の人はいるのかな?」「・・・捜索はする けれど、もし本当に親御さんが現れなかったら、君は施設へ行く事になるけれど、」 「、しせつ」 少年はそこで初めて声を出した。施設。まさか、そこへ行こうというのか。 少年が告げた少ない言葉にあった、両親だという二つの名前。すぐにそれを調べ、同姓同名の人間 に連絡を入れたが、どれも少年とは無関係。 このまま施設に入れてしまえば、少年は恐らく一生、子供らしい子供時代を経験する事なく老いて いくのだろう。 人と触れ、人と笑い会う慶びも知らないまま、大人になってゆく。 ・・・・・・それを見過ごして、良いのか。 もちろん施設がそれに相応しくないとは言わない。言わないが、しかし、この少年は自分から輪の 外へと身を置こうとするだろう。子供は自分だけではないからと、頼れるはずの大人を頼ろうとせ ず、何でも自分一人で物事を解決する子供になってしまう。 傍に温もりが欲しいと心の何処かでは思っていても、それを無理矢理押し込めて閉じこめて、そう して気付かないふりをする。 そうなれば、少年の心はこの先ずっと、ひとりで。 気付いた時には、自分はこの少年を自分の養子として引き取ると告げていた。一瞬自分でも驚いて 動きを止めるが、そこに後悔はない。いっそ晴れやかだ。 だが、少年の方はそうもいかなかったらしい。 ひどく怪訝そうな目をして、心底不思議で仕方がない、という顔をした。 「どうして、見ず知らずの他人にそこまでしてくれるんですか?」 ああ、こんな、こんな事が。 少年の口から飛び出た言葉が、何よりも哀しかった。見返りがあって当然と信じて疑っていない。 無償の愛を、少年は知らない。心はひどくそれに飢えているはずなのに、少年自身の心がそれを頑 なに拒んでいる。 傷付くくらいなら、いっそ最初から何も期待なんかしない。 少年は全身でそれを伝えていた。 ぶっきらぼうとも取れる少年の言葉は、裏を返せば傷付く事を恐れている事の現れでもあった。 強固なガラスの壁が、少年の心を守っている。けれどそれは強固でありながらひどく脆く、壊れや すい不安定なもの。 どうか、気付いて欲しい。 本当に君を守る最後の砦は、そんな硬くて冷たいものなんかでは無いという事に。 「子供を守るのが、大人というものなんだよ。君を守る大人が一人もいないんだとしたら、僕に君  を守らせてくれないかな?」 人とは、そんな風に頑なに拒絶するものではなく、触れるものなんだよ。 相手が寒いと言うならばその手を温めて、哀しいというなら寄り添って。 気付いているかい? 君だって、人として当たり前の幸せを掴んで良いんだよ。 「迷惑は、掛けられません」 「僕が、そうしたいんだよ。大人の勝手に思えるかもしれないね。でも、決して迷惑なんかじゃな  いよ。君を独りぼっちにさせたくないと願う、僕のワガママだ」 そう、ワガママ。 少年をこんな風に自己防衛させる事しか出来なかった大人の、自己中心的な言葉だ。 けれど、どうか知って欲しい。守られるという事を。頼るという事を。 ・・・・・・世の中には、無償の愛情がある、という事を。 少年は戸惑ったように視線を泳がせた。 迷っているのだろう。この言葉を信じても良いのか。 大丈夫。 だから安心させるように微笑んだ。 世界は、君を愛する為にあるんだよ。 やがて月日は流れ、少年の体も成長し、大きくなった。けれどそれ以上に喜ぶべき事に、少年の顔 に浮かぶ表情に変化が出てきた。 それは一般と比べれば遥かに少ないのだろうけれど、あの時を知っている身からすれば十分な進歩 だ。時折は笑みも見せてくれるようにもなった。本当に、表情が豊かになった。 元より賢く(境遇からすればそうならざるを得なかったのだろうが)、知識も驚くべきスピードで 習得していった。家庭教師も舌を巻くほどの出来に、当時はひどく驚き、同時に喜んだものだった。 ・・・・・・・・・まさか、会社の経営に意見を出せる程、頭が良かったとは知らなかったが。 ともかく、少年は・・・・・・いや、訂正しよう。 私の息子は、今や私にとっての自慢だ。 「父さん」 「ん? 何だい?」 呼び声に笑顔で応える。 あぁ、もうすぐお茶の時間だったね。 愛しい我が息子は、以前「どんなに忙しくても休憩は絶対にしなきゃ駄目です!」といつになく強 い口調で私をたしなめた事があった。怒った顔をしていたが、それは、・・・・・自惚れでなければ、 私の身を心配して言ってくれた言葉で。 どうして、そうと分かって無碍に出来ようか! 「今日はマドレーヌにしてみました」 「そうなのかい? それは楽しみだな」 自惚れても、良いのだろう。 その証拠に、この息子はお茶菓子をこうして手作りで差し出してくれる。お茶の時間に出される茶 菓子は、もはや彼の手作りというのが我が家の常識だ。 私はあの日を思い出す度、あの時突然降り出した雨に感謝する。 あれが無ければ自分はこの少年に出逢う事もなく、少年とこんな風に過ごす事も無かっただろう。 私はこの少年に、愛を与えてやれているだろうか? 不安にならないと言えば嘘になる。けれど、確かにこの思いは伝わっているという証明が、こうし てここに、はっきりと存在している。 『父さん』 初めてそう呼んで貰えた日を、私は一生涯、忘れる事は無いだろう。 紹介がまだでしたね。 彼の名前は、君。 私の、大切な息子です。 ------------------------------ おじさまっ、違います! この子は例え殺人鬼に遭遇しようと生き残る子供です!! なんかシリアスになったけど、最終的に親馬鹿まっしぐら。のほほんパパ。 子供を虐待してる親だって、元は何も知らない赤ん坊だったのにね。 誰だって初めは子供だった。そう思うとやり切れない。 あ、夢主は育児放棄された訳でも何でもないです。 本当に単体でぽっと世界に出現した感じ。だから誰も知り合いいないし血縁もいない設定。 ちなみに、おじさんの名前は、櫻井 真聖(さくらい まさと)さんです。 名前の如く、の人。 私は内心で“生きた仏さま”と呼んでいます。