日記ログ IF 夢主カズ兄ver.
こそこそと家を出ようとしていたカズが、そろりと玄関の扉を閉じて思わず息を吐いた時だった。
「何してんだ、カズ」
「!!!」
ぎっくー、と息を止めて振り返れば、そこにいたのは、
「・・・兄ちゃん・・・・・・・・・」
何でこんな時に、とカズは内心で唸った。転勤して一人暮らしをしているはずの兄が、どうしてこ
こに。
いや今はそんな事はどうでもいい。夜中に無断で外出しようとしていた事がバレたら、今日のバト
ルに参加出来ないではないか。そうなれば・・・・・・・・・その先は考えたくない。
「いや、えっと、これは、その・・・・・」
しどろもどろになって言い訳にもなっていない弁明を繰り返す。
そんなカズに何を思ったのか、は嘆息した。
小さくなったカズは俯いてぴたりと口を閉ざす。あぁ、何てタイミングの悪い。
「エア・トレックやってたのか」
どう言い訳したものかと思案を巡らせるカズの頭上にぽつりと落とされたのは、意外にもお説教で
はなく質問。
え、と顔を上げれば、そこには呆れたような苦虫を噛むような、複雑な目をした兄がいた。
自分の兄弟ではあるが、姉と比べていまいち表情が分かりづらい兄。けれどそこは長年同じ家で暮
らして共に過ごせば、多少の感情は読めるようになっていた。
その兄が珍しく読みづらい顔を崩している事にカズは若干驚き、言葉の内容に首を傾げつつ答える。
「う、うん。まぁ、最近・・・・っていうのかな。まだ初心者だけど、一応・・・・・」
すると兄は、エア・トレックをかつぐカズの姿を見詰めた後、ゆるゆると息を吐いて言った。
「少し、待ってろ」
「え」
「すぐ済む」
いや、そういうんじゃなくて。
カズの返答を待たず、たった今カズが出て来たばかりの扉をくぐって、兄はその中へ入り、消えて
いった。兄に向かって伸ばされた手が虚しく空中で停止する。
「・・・・・・・・・え?」
兄が何をしたいのかさっぱり分からない。
訂正する。長年一緒に暮らしていても、兄の考えている事は全く読めない。
*
本当にすぐ家から出て来た兄は、家に入る前とは違う格好をしていた。
ラフな感じのシャツに、ズボン。さっきまでスーツを着ていた兄だったが、どこにでも売っている
そこらの服を着ていても恐ろしい程格好良く映るのはなんでだろう。
そこはかとなく虚しくなる。黙って立っているだけで稼げるんじゃないだろうか。
思考が脱線していることにも気付かないまま、カズはぽかんと兄を見上げていた。
すると兄は「じゃ、行くか」と一言。せめて場所を告げて欲しい。
「ん? バトルに行くんだろう、カズ。俺もそれに付いていこうかと思って」
「はぁっ!?」
「問題あるか? 一応エア・トレック履いて来たんだけど」
「はぁっ!?」
バッと忙しなく首を下へ傾ければ、成る程確かに兄はエア・トレックを着用している。
でも聞きたいのはそういう事じゃなくて何故兄がエア・トレックを履いていてあまつさえ俺がエア
・トレックをやっていてバトルをする事を知っているのかそもそも付いてくるって何でだ、などな
ど。
様々な思いがカズの頭を駆け巡るが、その思考は「時間はいいのか?」という兄の一言でひとまず
打ち切りになった。
俺、こんなんで今日勝てるのかな・・・・・・・・・。
*
「ぬぅっ!? 誰だ、お前は!」
集合場所に着いた途端、イッキの声が周囲の空気を塗り替える。
一斉に振り返ったメンバーの視線は、前にいるはずのカズではなく、その後ろにいる兄へと向けら
れていた。
「さてはスパイか、闇討ちかッ!?」
オニギリが鼻息荒く威嚇してくるが、実際にそれをモロに受けているのはカズである。
謀らずとも兄の盾になるポジションに立っているカズは、メンバーの警戒心バリバリのオーラに当
てられて冷や汗を流した。
「ちょっ、待て待て待て! みんな誤解だって! 俺の兄ちゃんだからッ!」
「なんだ、いたのかウスィーの」
「なんだ、来てたのか」
ひっで!
ガン、とショックを受けるカズをよそに、なんだこいつの兄ちゃんか、名前は、新顔は俺に挨拶し
ろ、などとメンバーが兄に話しかける。
兄はその一つ一つに、なんだイッキは俺の事を覚えていないのか、俺はカズの兄で、など質問に答
えていた。自分一人を置いてほのぼのしないで欲しい。カズの口から溜息が漏れた。
盛り上がるメンバー。その中で一人、咢だけが鋭い視線を兄へ向けていたのに気付き、カズはきょ
とんと咢を見た。彼は、ああしたじゃれ合いから一歩身を引くのは知っている。けれど、こんな目
をしていただろうか。
「咢?」
「・・・・・あれ、本当にお前の兄貴か?」
「どーいう意味だよ」
むっとして見返す。どうせ俺は存在感が薄いよ悪かったな!
けれど返ってきた咢の声は、からかいや揶揄を含んではいなかった。むしろギラついている。
「・・・・・あいつ、チーム持ってんのか」
「へ? いや、聞いた事ないけど・・・エア・トレックやってるって知ったの、ついさっきだし・・・」
「チッ、使えねぇ」
先程から仲間に随分な扱いをされているカズに気付いているのかいないのか、兄は盛り上がるメン
バーに「そろそろ時間じゃないのか?」と冷静に告げていた。
*
―――今日の対戦相手は、かなりタチの悪い連中だった。
口の中に広がる鉄錆に、吐き気がする。けれどそれを吐き出す前に衝撃が腹に襲い、空気の固まり
が肺から出る。体中が痛い。当たり前だ、カズは今、一方的に相手から攻撃を受けているのだから。
「カズッ!」
仲間からの声が遠い。
一対一のバトル。けれどこれは度を過ぎていた。もはや勝負を決するためのそれではなくなってい
る。相手を嬲り、徹底的に痛めつけるそれへと主旨は変わっていた。もう、走るどころか顔を上げ
るのも億劫だ。
ドサリと地面に倒れる。それでも尚続く暴力に、カズは無抵抗のまま。
「っおいテメェッ! もう勝負はついただろうがッ!!」
イッキ、だろうか。あの声は。大きな批難の声に、しかし対戦相手は鼻で笑う。
「はっ、何言ってんだ、俺はまだゴールすらしてないんだぜ? ・・・勝負は、これからだろぉが。
ぎゃはははははっ!!」
そう、これは単純にどちらが早くゴールにたどり着けるかのバトルだった。けれどスタート直後、
足を何かに掴まれたかと思うと、目の前に拳が飛んできた。
後は、相手の独壇場。
殴る蹴るの暴行は、今も止まる事はない。
「つっても、コイツはもう走る事なんざ出来ないだろうがなぁっ!!」
ガッ、と一際威力の高い蹴りが脇腹に入る。唾液混じりの血が口から吐き出された。
意識が朦朧とする。目を閉じかけていたその時だった。
「なら、代走だ」
「ああ?」
訝しげな声と共に、体を揺さぶる衝撃が止まる。ズ、と顔を引き摺って声の方向を見れば、そこに
は無表情で佇む兄がいた。
「代走だぁ?」
「ああ。もうソイツは虫の息だろう? このバトルはそっちの勝ちで良いさ。だが、・・・・・・お前は、
それじゃあ満足出来ないだろう?」
挑発的な言葉に、チーム全員の驚愕が伝わる。
「っはははははは!! そりゃあイイや!! いいぜぇ、代走、特別に許可してやろうじゃねぇかぁ
ッ!!」
笑う声は、抵抗も出来なくなったカズに飽き、新たに生きのいいエモノをいたぶれる悦びに狂気の
音を響かせる。
思考の鈍っているカズは、最初兄が何を言っているのか分からなかった。
だが、だんだんとその言葉を脳が処理していく。
・・・・・・俺の、代わりに、走る?
「決まりだな」
「おいっ、お前・・・!」
焦りと戸惑いが入り交じったイッキの制止を兄はものともせずにこちらへとやって来た。
「へっへ・・・じゃあ始めようぜぇッ!! ・・・・・・っと、その前に・・・・・コレは、邪魔だなぁ?」
にたり、と相手の顔が歪むのを、カズは見えなくとも感じていた。
ぐっと襲い来るであろう衝撃に身を固くする。しかし覚悟していた痛みはどこにも訪れない。
「・・・・・・・・・?」
「てめぇ・・・・・・何のつもりだぁ?」
苛ついた声にそろりと目を開けると、入ってきたのは前を見る兄の顔。
それを見上げるような位置に自分の顔があり、そしてこの浮遊感。
「―――なっ」
そう、いわゆるお姫様だっこである。男相手に何やってんだ、というカズの叫びは、残念ながら冒
頭の1文字を発するだけで終わった。
代わりに女子の悲鳴が聞こえてきたような気がしたが、それどころではない。
一体いつの間に俺は、兄ちゃんの腕に抱えられたんだろう。
色々な意味で絶句するカズをよそに、兄は抱えていたカズをそっと地面に降ろすと、シャツのボタ
ンをひとつ緩めた。
「さて、これで準備は整ったな。―――他に、ご要望は?」
もはやカズは兄の行動を呆然と見詰める事しか出来ず、チームメイトすら何も言えずにその行動を
見守っている。
「ないなら、―――ゲームスタートだ」
そう言うと、兄は珍しく笑ったかと思うと、次の瞬間その姿は消えていた。
そしてそれに驚きの声を上げる前に、ガッと鈍い音が耳へ伝わる。
何が起きたのか、分からない。
どこへ、と兄の姿を探すと、先程までカズを散々いたぶっていた対戦相手が立っていた場所に、悠
然と、そして堂々と佇む兄を見つける事が出来た。
・・・・しかし、肝心の対戦相手の姿が見えない。
「ファック・・・・マジかよ」
咢の声に誘われてチームへ視線をやれば、只一人、咢だけが兄へ視線を送らず遥か彼方へ目を向け
ている。
つられてフイ、とそこを見遣れば、粉塵が煙のように空中へ立ち上っているのが見れ取れる。
「いっ、・・・・今のって・・・・・・・」
ブッチャが呆然とした声を場に落としたのをきっかけに、仲間から次々と声が上がった。
「まさか・・・・あの一瞬で、ヤツを蹴り飛ばしたっつーのかよ・・・・・・?」
涼しい顔をして立つ兄に視線を戻す。その顔には既に笑みはない。代わりに張りつめた空気が兄を
取り巻いている。
いや、あれは怒気だ。静かだが、その分密度は恐ろしく濃い。
カズの目には兄の背中しか見えていないが、恐らくその目はひどく鋭い光を宿しているのだろう。
それは、カズや姉が傷つけられれば必ず浮かべていた兄の表情。
兄の転勤を機にそれ以来見る事は無かったが、久々の威圧感を間違える訳もない。
兄は今、確かに怒っている。
「それで終わりか?」
ぞっとする程柔らかい声が響いた。やけに落ち着いた印象のそれは、耳にしてもちっとも安心を与
えるものではなく。
だから、ああ、忘れていた。
兄の怒りモードを発動させた人間が、それ以来ことごとく自分たちの周りから姿を消した事も、普
通なら復讐をされてもおかしくないものを一度も逆恨みの類に遭遇した事がない事も、・・・・・・兄の
その、情け容赦のない残酷なまでの強さに、兄を慕う者が絶えない事も。
「意外とあっさり終わったな。・・・・・まぁいい。カズ、立てるか?」
優雅といっても何ら差し控えのない兄の歩く姿は、月光を背にしているせいでやけにキラキラして
いる。
ここで再びお姫様だっこは嫌だったので意地でも立ち上がったカズは、震える膝を見て笑う兄を下
から睨み付けた。
―――笑うなっ! 仕方ないなっていう目で見るな!
けれども何も言わずに肩を貸してくれる兄に有り難くよりかかり、駆け寄ってくるチームメイト達
を見て、カズは気を失いたくなった。
・・・・・・拷問じみた質問疑問説明しろの嵐に、体力も限界だったカズが気を失うまで、あと73秒。
(08/04/01)