赤にならない信号機 03
いつものバイト時間。
平日とも相まって普段よりも入客の少ない店内に退屈を感じていた時だった。
店の出入り口のドアが開く。
「いらっしゃいませ~」
えへっと笑みを作って明るい声で言う。
やぁっとお客さんかー。まぁ、来なくてもいいんだけど、こうも暇だとちょっとねー。
んふふ、だぁーれが来たのかなっ。
上々の気分でエントランスへ顔を向ける。その時まではそう思っていたのだ。
だが。
「―――!」
そんな気分はどこかへ去り、代わりに押し寄せたのは畏怖に近いもの。
無表情な顔で無感動に店内を見渡すその男は、シムカの顔を強張らせた。
動けない。
うそ。
だって、そこにいるだけなのにッ・・・・!
シムカはひゅっと息を吐き出した。
何をされた訳ではない。
彼はそこにいるだけだ。何もしていない。
なのに、それなのに、彼が視線だけで店内を貫いた時、空気が変わった。
隙も無駄もない目配せは必要な情報だけを彼に伝えているのだろう。それが分かる。
けど、そんな事は些細な事だ。
この人は、只者じゃない。
冷や汗が止まらない。
男の動向を見守る事しかできないシムカは、どくんどくんと騒ぐ心臓を持て余す。
たとえ動けたとしても、この震える体にはそれも不可能だっただろう。力がろくに入らない。ただ
視線だけが男を追う。それしか目に入らないように、シムカは息を詰めて男に見入る。
そして男はシムカの動悸を更に高める行動に出た。それにシムカは息を止める。
(あの、エア・トレックは―――!)
は、とか細く息を吐き出す。
それまで店内を見渡すだけだった男が、ある一点に目を留めた。
そこにあるのは、目立つ場所にあって目立つ色彩を持っているにも関わらず、誰もその存在に気付
けなかったもの。
エア・トレックを選ぶ人間のなかにあって、それはエア・トレックこそが自身を使いこなす人間を
吟味しているかのようであった。そんな唯一の品が置かれている場所に、ゆっくりと彼が近付く。
そうして件のエア・トレックの前まで進み、ついに。
(―――!)
それを手に、取った。
自分は神話の一部でも眺めているのだろうか。
彼の人だけを求め、愛し、祝福を与えんと光を降り注ぐかのように、それは厳かで神聖じみている。
これがエア・トレックの放つ輝きだろうか?
自分の知る多くのレガリアでも、こんな幻を見せる事はないだろう。
神の奇跡を受け取った人間。いや、神こそが喜んでその光を明け渡し、永劫に寄りそう事を誓うよ
うな。
シムカは純白のエア・トレックが喜びに輝いたかのように見え、無意識に手を握る。
男は数秒エア・トレックを見詰めていたかと思うと、フッと口元を綻ばせ、薄く笑った。
ぞくり、とシムカの背が震える。
あれほど動かないと主張していたはずなのに、足は勝手に彼の方へ向いた。
「・・・それが気に入ったの?」
心臓が高鳴る。
あぁ、まさかこんな瞬間に出会うなんて!
大きく鼓動する心臓と息を整えようと取り繕い、笑顔で尋ねる。引きつってはいないだろうか。
男はエア・トレックから視線を移し、シムカを見た。
動かない表情にシムカは密かに身を強張らせる。
怖い。
けれど同時にひどく惹かれるのを止められない。
深くに触れてみたい。
だがそう思うけれど不可能だと知った。彼をつかむ事など誰にだって出来やしないだろう。何より
このエア・トレックが許さない。自分以外が彼の深層に根付くなど!
分かっていてもシムカは自分を見下ろすその目から逃れられない。
「・・・・・・・面白いとは、思うよ」
男はやはり表情を変えずにそう言った。
面白い、これが?
シムカは絶句した。
私でさえ触れる事を躊躇うエア・トレックなのに、恐れるどころかこの人は呑まれてもいない!
人を拒絶しているかのようなエア・トレック。それに易々と触れておいて平然としている。
あぁ、間違いない。彼こそが。
シムカは確信と共に歓喜の吐息を漏らした。
彼こそが、あの。
ところが男は、まるで興味を無くしたようにエア・トレックを元の陳列棚に戻してしまった。
驚いて目を丸くする。
「・・・・・・何してるの?」
思わずそう言ってしまった。しかしそれに気付く余裕は無い。
なぜ、手放すような真似などするのか!
しかし彼はシムカの心情など知った事ではないのか、あっさりと口を開く。
「何って、商品を戻してる」
それが何だ、と言うように男は素っ気なく答えた。
関心が失せた、そんな目で。
茫然自失するシムカを置いて、男はさらに言葉を紡ぐ。
「欲しい訳でも無かったしな」
シムカは二の句が継げない。
彼は、彼は何を言っているんだろう。
シムカは目の前がぐらぐらと揺れたかのような衝撃を受けた。
出会うべくして出会ったもの同士だ。彼らはそれに違いないはずだ。なのに、どうしてそんな真似
を!
やめて、とシムカは心で叫んだ。
既に彼の足はエントランスへと向かってしまっている。
待って。
シムカは声にならない声で追いすがった。
待って。
迷いも未練も無く颯爽と歩く背中が、遠い。
追いつけ、追いつけ、追いつけ、追いつけ!
彼をこのまま行かせてはいけない!
「ッ、待って!」
彼は振り向いてはくれなかった。
それでもいい。立ち止まってくれるだけでいい。それだけでいいから。
シムカは弱々しく手を伸ばした。その先が彼の袖口に引っかかる。引っ張るだけの気力はシムカに
は無かった。
男は無言のまま、こちらを見ない。
シムカはその無関心さをありありと見せつけられて泣きそうになった。
らしくない。
普段の彼女を知る者ならば口々に告げただろう。
けれど、彼は違う。違うのだ。
彼に目を向けられない事がつらい。関心を寄せてくれない事が哀しい。
まるでエア・トレックに呼応したようにシムカは心細さを感じていた。
「・・・・・・・・・・・・エア・トレック。しないの?」
まるで子供のような言い回しだ。
歯噛みする。彼に伝えたい言葉は沢山あるのに、どうしてそれしか出てこないのだろう。
「興味ない」
今度こそシムカは泣きそうになった。
興味ない。
彼の言葉が何より哀しい。
「・・・アレで、空を飛びたいとは思わない?」
こっちを、見てはくれないの?
「相応しいとは思えない」
そんな。
シムカは崩れ落ちそうになった。
認めてはくれないのか、彼は。
どうして。何がいけないの。
「貰っていっては、くれない?」
連れて行ってさえくれないの? そんな気すら起きない?
貴方と一緒にいる事を、許してはくれないの?
「・・・俺が、か?」
冗談だろう、と言うように彼は笑った。
その瞳に自分が映ったというのに、シムカはちっとも嬉しくない。
違う。見て欲しいのはこっちじゃなくて。
「お金はいらないわ。だから、受け取って。あなたに使って貰いたいの」
もう一度、あの荘厳な世界を見たい。
見る者全てを釘付けにし、そこから動けなくしてしまうあの美しい光景を見たい。
シムカは必死になって言った。
何でもするわ。何でもするから、だから、どうかどうか。
神の慈悲を願う気持ちとは、こういうものなのだろうか。
全てを投げ打ってもいい、何をなくしても構わない、だからどうか。
男は一貫して無表情で呟く。「なぜ」と。
あぁ、上手く言葉を引き出せない自分が嫌になる!
「あれは、貴方にしか使いこなせない特別なものだから」
貴方にしか、相応しくないもの。
直感ではない。本能でそれを知った。あれを使いこなせるのは彼しかいない。
シムカは縋り付くように男を見詰めた。
浅ましいと思われても構わない。あれが彼の手に行き着かない事に比べれば、何ほどの事でもない。
どれくらいそうしていただろう。
やがて彼の溜息の音が聞こえ、シムカはびくりと肩を震わせた。
硬直するシムカに影がかかる。腕に抱えていた重みが消えた事に気付いたシムカは、ハッとして顔
を上げた。
「――――――、」
信じられない。
シムカでさえ持つのがやっとだったエア・トレックが、いとも簡単に彼の手に収められている。
しかもまるでボールを相手にしているかのように遊んでいる。その表情、動き共に重さを全く感じ
させない。
呆然とするシムカに、彼はふと向き直ってエア・トレックを持っていない手を差し出してきた。
慌てて手を開くと、そこには。
(んなっ・・・・・・!?)
一体どれだけあるのだか分からないほど、厚みのあるそれ。どう考えても諭吉さんが数十人はいる
であろう。
いくらあのエア・トレックとはいえ、これは普通のエア・トレックの価格より数倍上回っている。
ガバッと顔を上げると、彼はただ一言、「代金」とだけ言って去ってしまった。
(名前・・・・・・・・・・・・)
それさえ聞く事を忘れていた。
そんな事を今思い出し、シムカはぺたりと床に座り込む。
「は、はは・・・・・・・・・、あははははは・・・・・・・・・・・・・・・っ」
まだ体の震えが止まらない。
これを、何と表現すればいいのだろう。
あぁ、自分は奇跡の一瞬に立ち会ったのだ!
彼にしか許されない世界で、その片隅に立ち、彼らが共にある瞬間を!
「ふ、ふふ、あ、は・・・・・・ははっ・・・・・・」
シムカは笑い転げた。
誰もいない店内で一人、笑う事以外を忘れたように笑い続ける。
革命の朝が来る。
シムカは預言めいた思いに、ぶるりと身を震わせた。
------------------------------
ち、違いますよシムカさんっ! 違いますよっ!
思わず伝えたくなる夢主の心情。
(08/02/09)